教育方針

時代が変わっても、教育方針は変わりません

創立者 飯村丈三郎先生

創立者 飯村丈三郎先生

建学の精神

報恩感謝

校訓

校訓

飯村丈三郎先生(以下丈翁)は、嘉永6年(1853年)5月24日、現在の下妻市黒駒に誕生しました。嘉永6年という年は、ペリーがアメリカ大統領の国書を持参して浦賀に来航した年で、国内が大混乱に陥った年にあたります。江戸幕府は翌年、再度来航したペリーとの間に、日米和親条約を締結し、従来の鎖国をやめ、開国に大きく転換しました。まさに、丈翁は日本が近世から近代に歩み出そうとした過渡期に誕生したのです。
丈翁は、明治・大正・昭和の3期に、県内外の政界・財界・教育界において、屈指の活躍をしました。県議会議員から帝国議会の衆議院議員を2期勤められ、この間、大蔵卿・参議を歴任し、東京専門学校(現在の早稲田大学)を創立した大隈重信との交流がありました。政界を引退する時に、大隈卿は「惜しい人材だ」と言われたといいます。

惜しまれながら政界を引退すると、財界に入り、まさに、日本の資本主義の成立期に活躍しました。第62銀行の頭取、水戸鉄道株式会社(現水戸線)の取締役、茨城新聞社社長、太田鉄道株式会社(現水郡線)社長、東京精米株式会社社長、日本火災保険株式会社専務取締役、京成電軌株式会社取締役、常総鉄道株式会社監査役、日華生命保険株式会社監査役、茨城鉄道株式会社顧問などに就任したことは、丈翁が財界人として広い見識の持ち主であったことの証しといえます。

丈翁は、明治期に東京・横浜を中心に広まった文明開化の波を、時代は下りますが地方にまで広げ、その連携のもと、近代地方都市の発展に力をいれたのです。資本主義の成立期に活躍した丈翁はまた、教育・文化の高揚が近代化の中で欠かすことのできないこと、と考えました。茨城新聞社社長として、言論・育才・教育面で、本県をリードしたのは、その為からなのです。茨城展覧会や東京大学の教授・学生による水戸市常澄町、六地蔵寺の古文書調査に積極的に関与したりもしました。丈翁は晩年に私塾「水戸学院」更生発起人となり、水戸藩「弘道館」教育継続に全力で取り組み、「水戸学院」の伝統を継承する形で、旧制茨城中学校(現茨城高等学校・茨城中学校)の創立に帰結する事業を展開したのです。